歴史探訪 史跡見学③「大久保周辺を歩く」
11月25日(木)、全三回の歴史探訪も、ついに最終回を迎えました。
前回「実花周辺を歩く」で、圍壁やドイツ捕虜オーケストラの碑といった、戦争にまつわる史跡を見学しました。
今回の「大久保周辺を歩く」は、そうした軍事関連史跡を中心に巡りました。
最初は、八幡公園にある旧騎兵旅団司令部跡です。
明治32年(1899)から34年(1901)にかけて、日露戦争に備えて、騎兵第13(現東邦大)、14(現日本大)、15(現東邦中高)、16連隊と旅団司令部(現八幡公園・市民プラザ)といった騎兵に関する施設が大久保に置かれました。
日本軍は元々歩兵中心でしたが、日清戦争から大陸での戦争に向けて、当時ヨーロッパなどの海外で主流だった騎兵を育てようとしました。
大久保には四つの騎兵連隊があり、これほど数があるのは珍しいことでした。練習所もあり、首都防衛の役割があったためと考えられているそうです。
東邦大や日大内にも記念碑などがあるのですが、今回は新型コロナウイルスの影響で、校内に入ることができませんでした。
公園内の軍馬忠魂碑(移設されたもの)の裏には、通常彫られているはずの軍人名が、完全に削り取られています。
削り取られた理由は、いまだ不明とのことです。
公園のすぐそばには、誉田(こんだ)八幡神社があります。
大久保新田の祖の市角頼母らが、延宝年間(1673~1680)に河内国古市郡(現大阪府羽曳野市)から現本大久保2-3(富士見公園)に分社し、大久保新田の開村により現在の東金街道沿いに移したと伝えられています。
祭神は誉田別(ほんだわけ)命(応神天皇)です。
境内には、太平洋戦争の激戦地硫黄島の守備隊指揮官として有名な栗林忠道中将の揮毫による紀元二千六百年の記念碑などがあります。
紀元二千六百年の記念碑の裏には、きちんと名前が彫られています。
習志野市立第二中学校には、戦前のコンクリートで作られた水道が残っています。
馬の飼い葉桶として丁度良い大きさと深さで、おそらく軍隊から持ってきたものではないかと見られています。
第二中学校入り口には、東金街道一里塚の椎の木もあります。
現在は生徒たちの待ち合わせ場所として、その役割を果たしています。
現在、習志野の森と呼ばれている場所は、かつて陸軍習志野学校が置かれていました。
この学校は毒ガス戦の防護・撒毒・消毒の実技を習得することを目的に、昭和8年(1933)に設立され、「毒ガス学校」と呼ばれました。
毒ガスを使った演習訓練や動物実験は行われていたようですが、731部隊などのような生体実験が行われたことはなかったようです。
歩いていた途中にある幼稚園児が遊んでいる公園は、かつて軍の機密文書を焼却場所に送るための車を停めていた場所だそうです。
特に、赤紙の召集関係の文書は全国的に燃やされており、残されている例は、富山県のある戸籍係の子孫の自宅で残されているケースなど、極めて珍しいそうです。
泉児童公園(旧習志野学校弾薬庫跡)には、旧習志野学校に使用されていたコンクリートがそのまま残っています。
戦前のコンクリートは分厚く、なかなか壊すことができないのだそうです。
大久保の民家の中には、現在も軍施設の一部が残されていることがあります。
御影石で作られた、民用地と軍用地を分けるための支柱です。「陸軍用」と書かれています。
このように、大久保は「騎兵の街」「軍隊の街」と呼ばれ、現在も史跡から当時を忍ぶことができます。
自分たちの住んでいる地域が、どのような歴史を踏まえ現在に至っているか、思いを馳せる講座になったのではないかと思います。
全三回とも天気に恵まれた歴史探訪は、こうして無事終了いたしました。