歴史探訪 史跡見学①「実籾周辺を歩く」
10月21日(木)、『歴史探訪 実花新田と東習志野の歴史を歩く』の初回を迎えました。
この講座は、現地を歩きながら江戸時代は幕府直轄の放牧場、明治以降太平洋戦争終戦までは軍用地として利用された東習志野の歴史を学び、実花新田の開発や習志野開拓の歴史を振り返り先人の苦労に思いを馳せていただこうと企画いたしました。
そこで、千葉県文書館古文書調査員をされている笹川 裕 先生に講師をお願いし、コースを決めていただきました。
今回歩く実籾地区は、旧来は実籾本郷あたりが中心だったようですが、東金街道の開通に伴い、次第に街道沿いに集落が移動してきたようです。
船橋から東金に至る一直線の東金御成街道は、本市では藤崎・大久保・実籾地区を通っています。
徳川家康が東金の鷹場での狩りに行くために造らせたと伝えられていますが、一説には外様大名を牽制するための軍事道路だったとも言われています。
その街道沿いにあるのが、旧鴇田家長屋門です。
そこからしばらく歩いて坂を下り、急な階段を上ると、大宮神社が現れました!
実籾本郷公園は、谷津田(やつだ)の地形を生かして構想された水辺のある大規模な公園です。
本来の実籾の景色を残しています。
旧鴇田家住宅は、東金街道沿いの実籾村(現在の実籾2丁目付近)に建てられた旧家で、同家に残されていた「大工手間日記」によって、享保12年(1727)から同13年にかけて建てられたものだということが分かっています。
なんと、この「大工手間日記」は、笹川先生のチームによって発見されました。
記録が残っている民家は少なく、大変貴重なのだそうです。
家の造りは「曲家(まがりや)」と呼ばれる形式で、東北地方に多く見られますが、南関東では珍しい形式です。
平成17年(2005)3月に、千葉県有形文化財に指定されました。
茅に虫がつかないように、毎日火をともして煙を出しているそうです。
上の写真のような曲がった木材のほうが丈夫ですが、曲がった木は大きく育ちにくいので、貴重なのだそうです。
ここまで立派な木材を本数揃えられた鴇田家が、いかにお金をかけているかが分かります。
燻っている竹も良い色をしています。
土間の段差の高さが、格の高さの表れだそうです。
上の写真は二つ目の玄関です。名主の「役宅」であるため、公的な玄関がありました。
先ほどの土間は私的な玄関です。
奥の間に、一枚だけ大きな畳を発見!!
納戸には、東日本大震災での復旧の写真が展示されていました。
旧鴇田家住宅は倒れてはいませんが、周りが一部壊れてしまったそうです。
上の写真の真ん中の板には、建築当時の大工の出勤簿が書かれています。柱に打ちつけて使われていたのかもしれません。
旧鴇田家住宅を後にし、坂を上った踏切のあたりに、かつて一里塚があったそうです。
大原大宮神社は、文禄元年(1592)に実籾本郷に創建されたと伝えられ、その後東金街道ができたので、その道沿いの現在地に移したと言われています。
無量寺は真言宗西中山宗光院無量寺といい、古くは尼寺で、東金街道ができてから実籾本郷にあった観音寺を移し、寺となったといわれています。
習志野七福神の寿老人札所で、実籾村民の檀那寺です。
笹川先生によると、一般民衆が「イエ」を意識するようになったのは元禄のあたりだそうです。
昔は遺体を山に埋葬し、遺体の入っていない墓を作る「両墓制」も多く、実籾もかつてはそうであった可能性があるそうです。
日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した方々の慰霊碑を忠魂碑と言うのですが、個人向けのものと隣り合って建てられているケースは珍しいそうです。
戦争の悲惨さに思いを馳せ、初回の歴史探訪は終了しました。
次回は11月11日で、実花周辺を歩きます。お楽しみに!